オホーツク賛歌(歴史編)
オホーツク地方の歴史

○オホーツク文化
 OKHOTSKつまりオホーツク。もともとロシア語で、実際、その名を冠する漁村がロシア極東にある。かつてカムチャッカ半島やサハリンへの漁業基地として栄えた地だという。
 こんなことにも象徴されるように、オホーツク地方は日本の文化圏にありながら、北方の大陸文化の影響を受けた地域である。つまり、日本の最果て、辺境の地は、見方を変えれば世界の窓口でもあった、というわけである。なかでも奈良・平安時代にかけて栄えたオホーツク文化は、それまで北海道にあった土着文化とはまったく異質のもので、海を生活の舞台とする海獣狩猟中心の漁労文化だった。網走のモヨロ貝塚などの遺跡からは、アムール川(黒竜江)流域や東シベリア地域との交渉が密接であったことを物語る遺物がたくさん出土している。
 流氷の民と呼ばれる古代オホーツク人には謎めいた浪漫が掻き立てられる。500年以上にわたり、オホーツク海沿岸で文化的にも栄華を誇ったオホーツク人の痕跡が、ある時(約800年前)を境に忽然と消えているからだ。この突然の民族消滅には諸説がある。現在は擦文人に混血・吸収されたとする説が有力であるがはっきりと解明されていないのだ。

 北方民族の文化と歴史を学べるのが「北海道立北方民族博物館」。北方地域を専門とする点で日本では唯一の、そして世界的にも数少ない民族博物館である。古代オホーツク人がどこから来てどこに消えたのか?謎を解く鍵がここにある。北方圏全体から見るとオホーツク地方は南の楽天地であったのかも知れない。 
 オホーツク地方(網走支庁管内)では2,000を越える遺跡が確認されているが、地域によって時代が大きく異なる。オホーツク沿岸地域では縄文、続縄文、オホーツク文化、アイヌ文化まで各時代の遺跡が分布しているのだ。 約2,500に及ぶ竪穴住居が連綿と残る常呂遺跡、オホーツク文化遺跡として著名な網走市のモヨロ貝塚、縄文後期のもので小型のストーンサークルを内部に持つ斜里町朱円周堤墓などが代表格。また、黒曜石の原産地として知られる白滝村(現遠軽町)など内陸部では旧石器時代の遺跡が多く見られる。オホーツク沿岸の古代遺跡は樺太・シベリアなど大陸諸文化との関係が強く認められ、北方古代文化の解明に果たしていく役割は大きい。

(オムサロ遺跡/紋別市)

(常呂遺跡/北見市常呂

(モヨロ遺跡/網走市)

(朱円遺跡/斜里町)

 川や海での漁労を中心とした生活が長らく続いたこの地方にも、漁業から農業への大変革の時代が訪れる。明治政府による開墾政策がそれである。オホーツク地方の地形はあたかも人の行く手をはばむかのようにできている。西側を南北に走る北見山地、南には阿寒の山々がそびえ、知床半島の中央を知床連峰が突っ切る。これらの山々にガードされて平地があるが、札幌側から見ると難航不落の要塞さながらの構えである。現在でも冬の石北峠越えは吹雪くと難儀するほど。ましてや明治の初めごろとなれば、わずかに函館との海上輸送が行われる程度で、山を越える道路とてなかった時代である。オホーツク地方での本格的な開拓など、まだまだ望むべくもなかった。東京都がすっぽり5つも収まるこの広大なオホーツクの地は、北海道各地で入植が始まった明治初期においても、依然として海岸沿いの土地がわずかに開かれただけだったのである。

 その状況が一変したのが、明治のなかごろである。北辺警備の必要を痛感した明治政府は、明治23年(1890年)、釧路と網走を結ぶ釧路道路を突貫工事で開通させ、さらに翌24年には旭川と網走を結ぶ中央道路(現在の国道39号)を完成させた。このとき道路開削のために集められた釧路監獄所の囚人たちの宿泊所として建てられたのが、網走刑務所の始まりである。こうした道路とともに開拓の動脈を担ったのが鉄道だ。大正元年(1912年) に網走と十勝の池田を結ぶ網走線(後のふるさと銀河線/2006年4月廃線と石北本線)が全線開通、初めてオホーツクに鉄路が達した。   これによって全国からの入植者だけでなく道内他町村からの第2次移住者も殺到、人口が20万人と、倍々ゲームで増えていった。 オホーツク地方では道路や鉄路沿いに集落ができ、それが開拓の起点となった。北海道の多くの入植地が川に沿って開かれていったのとは対照的である。  

○開拓の日々
 明治30年(1897年)と31年、北辺の警備と開拓の2つの任務を帯びた屯田兵約1000人(家族を含めると約6000人)が、中央道路沿いの北見と湧別に入植した。当時のオホーツク地方の人口が1700戸7000人だったことを思えば、この数字の重さが知れよう。兵村での生活をふりかえる座談会が『上湧別郷土史』に載っている。全国からの寄り合い所帯ゆえ言葉がうまく通じなかったという興味深いエピソードを引用してみよう。「ある日、隣の人が浜市街に行くが何か用があるかというので『スリツケ木(マッチ)』を買ってきてくれと頼んだ。ところが『シツケ糸』を買ってきた。私ら山形で言葉が悪いから聞き違ったのでしょう」。「井戸組の人があいさつ回りの時に入り口のところでゴニョゴニョと言ってね、相手の顔を眺めて笑うんですよ。すると向こうも同じようにこちらの顔を見て小さな声で何か言ってニコニコ笑うという具合で・・・そのうち『そうだナモ』『そうだバッテン』というようなまねをして冗談を言ったもんです。
 今ではこうしたお国ことばはほとんど聞かれない。様々な土地から集まったため、生活の都合上、共通語化が早まったというのが言語学者の説くところである。長編「石狩川」の作者・本庄睦男の一家が、最初の入植地である札幌近郊の当別から紋別に2次移住したのは大正2年(1913年)のこと。彼の処女作『北の開墾地』の一節から、開拓作業の苦闘の一端を知ることができる。
 立木一本伐採されると、それだけ地面の陽の目を見る。小枝一つを灰にすると、畑地が、それだけ広げられる。熊笹の根一本引き抜くだけでも土が耕されるのだ。/ズシン、ズシンと、立木は地響きを立てて伐(き)り倒される。・・・切断された木口がミリミリ泣いて、木目にそってシャリッと裂かれたかと思うと、思いっきり図体を地面に敲(たた)きつけて大木が倒れるのだ。ザァーと一鳴り周囲の立木が戦慄した。いたどりが押し潰され熊笹がたたかれた。草の葉の蠢(うごめ)きが落ちつくと、まだ痙攣(けいれん)するたも木に、和吉とお加代は殺到する。そして男は胴木を切りくずし、女は鉞(まさかり)を振りまわして枝をたたき切る」・・・。
北の最果て、厳寒の地オホーツクは、開拓者達の情熱・執念・努力・英知の結晶の地でもあるのだ。

 屯田兵による開拓の歴史を学べる上湧別町の「ふるさと館JRY」。貴重な資料のほか内部には屯田兵屋が復元され、当時の生活を垣間見ることができる。

原生林(端野地区)

開拓村(端野地区)

ふるさと館JRY(上湧別)

屯田兵人形(信善光寺/北見)

○オホーツクの歴史・文化を知る(オススメ施設)
北方圏の文化を知る
・道立北方民族博物館(網走市/0152-45-3888)
オホーツク文化のアイスロード・流氷を知る
・オホーツク流氷館(網走市/0152-43-5951)
・オホーツク流氷科学センター(紋別市/0158-23-5400)
開拓道路(囚人道路)を知る
・博物館網走監獄(網走市/0152-45-2411)
鉄道を知る
・興部町交通記念複合施設(興部町/01588-2-2131)
・上興部鉄道資料館(西興部村/01588-7-2111)
・滝上駅舎記念館(滝上町/01582-9-2111)
・上湧別町鉄道資料館(上湧別町/01586-2-2111)
・湧別町計呂地交通公園(湧別町/01586-5-2111)
・佐呂間町交通公園(佐呂間町/01587-2-1288)
・卯原内 鉄道記念館(網走市/0152-44-6111)
・交通記念館(美幌町/01527-3-2111)
開拓の歴史を知る(屯田兵、農業)
・ふるさと館JRY(上湧別町/01586-2-3000)
・美幌農業館・美幌博物館(美幌町/01527-2-2160)
オホーツクの古代遺跡を知る
・モヨロ貝塚(網走市/0152-43-2608)
・ところ遺跡の館(北見市常呂/0152-54-3393)
・白滝郷土館(遠軽町白滝村/01584-8-2963)
・遠軽町先史資料館(遠軽町/01584-2-8295)
・斜里町立知床博物館(斜里町/01522-3-1256)
・興部豊野竪穴住居跡(興部町/01588-2-2552)
・オムサロ台地竪穴群(紋別市/01582-3-4236)
・シブツナイ竪穴住居跡(湧別町/01586-5-3132)
・女満別郷土資料室(大空町女満別/0152-45-2411)
オホーツクの歴史・文化を知る
・網走私立郷土博物館(網走市/0152-43-2608)
・紋別市立博物館(紋別市/0158-23-4236)
・北網圏北見文化センター(北見市/0157-23-6700)
・端野歴史民俗資料館(北見市端野/0157-56-2111)

・西興部村郷土館(西興部村/0158-88-5010)

・丸瀬布郷土資料館(遠軽町丸瀬布/0158-47-2466)
・滝上町郷土館(滝上町/0158-29-3499)
・湧別町郷土館(湧別町/01586-6-2229)

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