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オホーツク古代文化浪漫 |
| 大正2年、在野の学者であった米村喜男衛氏が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこには貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品はどれもが他に類例を見ないものだった。この「モヨロ貝塚」の発見は世界的にも注目され、作家の司馬遼太郎氏も著書「街道を行く」の中で発見者の米村氏をトロイの遺跡を発見したシュリーマンと並べて書いているほど。 北海道オホーツク地域に残る多くの古代遺跡。オホーツク人(モヨロ人)はどこから来てどこへ行ったのか。古代人が残した爪跡は、訪れる人を果てしない想像の世界へと駆り立てずにはおかない。 「オホーツク21世紀を考える会」作成の冊子『春のオホーツク体験紀行』から、オホーツク文化の記述を抜粋し紹介します。 |
| 二万年前から大陸と繋がっていた北海道の古代文化 |
![]() (東洋一といわれる黒曜石の路頭 ) | ![]() | 全国各地で二万年年程前の人骨が発見されているが、古代日本を語る場合、ここ北海道オホーツク地方を抜きでは語れない。 北海道に人が住みついたのは旧石器時代(およそ二万数千年前 )とされるが、遠軽町白滝(旧白滝村)の白滝遺跡群は旧石器時代の遺跡としては日本最大規模の遺跡だ。白滝遺跡群からは、赤石山から採取した黒曜石を原料とした様々な石器が大量に発見され、この一帯が石器の製造場だったと思われる。白滝産黒曜石は、南は三内丸山遺跡を含む北東北、北はサハリンやシベリアの遺跡からも発見され、本州・大陸と交易が行われていたことを物語っている。大陸とのつながりといえば、大空町女満別(旧女満別町)の豊里遺跡から、昭和32年に発見された石刃鏃(せきじんぞく)は、日本考古学界でも画期的な発見だった。石刃鏃とは、石を縦に剥いで作った石刃を鏃(やじり)にした鋭利な石器のことである。 |
| これまでユーラシア大陸北部で広く認められていた石刃鏃が、日本列島では発見されていなかったのであるが、女満別ではじめて本格的発見がされ、これによって大陸と日本列島の石刃鏃文化が繋がったのである。 |
| オホーツク地域は縄文人にとって豊かな土地 |
![]() (ところ遺跡の森) | 石刃鏃が発見された女満別豊里遺跡は約七千年前のものとされ、時代は縄文時代早期だろうか。北海道の縄文時代は一万年前から七〜八千年間続いた。 縄文時代は、言うまでもないが縄目の文様がついた土器に由来し、人々は狩猟採集を営みとしていた。 北見市常呂町(旧常呂町)の常呂川河口周辺には旧石器時代から縄文、擦文・アイヌ文化までの遺跡が数多く発見されていて、竪穴住居跡が二千五百以上も確認されている。これほど各時代にわたる遺跡が遺されている地域も珍しく、各時代の比較およびシベリア、サハリンなどの北方文化の研究において重要な遺跡となっている。 |
![]() | 縄文時代の後期から晩期の一時期に見られる特徴に、ストーンサークルや集合墓地(周堤墓・環状土豪)があげられる。斜里のオクシベツ川遺跡のストーンサークル、朱円周堤墓がそれで、東北地方の文化が持ち込まれたものだと考えられている。 オクシベツ川遺跡のストーンサークルは、現在、斜里町立知床博物館の裏に復元されていて実際に見ることができる。 縄文時代は二千年ほど前に終わりを告げるが、ここから北海道と本州は別の時代をたどることになる。本州では稲作の伝来により弥生時代へと移るが、北海道は続縄文・擦文・アイヌ文化へと時代をたどっていく。極端な言い方をするならば、狩猟採集の縄文的文化が明治の時代まで続くのである。縄文時代は今より気候も温暖だったとされ、食糧も豊富にあり、縄文人にとってこの地は豊かな地であったのだろう。 |
| 流氷とともに現れ消えた幻の民族「モヨロ人」 |
| 続縄文から擦文時代に並行して、日本考古学史上特異なオホーツク文化の時代がある。六〜十一世紀のおよそ五百年間、日本では古墳〜平安時代に相当する。 オホーツク文化発見は、大正二年までさかのぼる。在野の学者であった米村喜男衛が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこは貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品は、どれもが他に類例を見ないものだった。 |
![]() (モヨロ貝塚館) ![]() (貝塚の断面) | この「モヨロ貝塚」の発見によって、縄文文化ともアイヌ文化とも違う“オホーツク文化”の存在が明らかになっていったのだ。米村喜男衛が発掘した資料を基に作られたのが、現在の網走市立郷土博物館であり、モヨロ貝塚館である。 では、オホーツク文化の担い手、ここでは仮にモヨロ人と呼ぶことにするが、モヨロ人はアムール川流域あるいはサハリンから南下してきた海洋狩猟民ではないかと考えられている。が、彼らがどこから来た民族なのかは、未だ明快な結論は出ていない。 回転式離頭鋸に見られるような発達した漁具。海獣を象ったり波形や魚、漁の光景を施した独自の土器や骨角器。また住居内に熊の頭蓋骨を祀ったり、独特な死者の埋葬法など、精神文化の面でも独自性が強い。 オホーツク文化はやがて、擦文文化へと吸収され、アイヌ文化へも受け継がれていくことになる。歴史の時間尺で見れば、突然に現れ忽然と消えてしまったオホーツク文化とモヨロ人。 司馬遼太郎は『オホーツク街道』(街道を行く38・朝日新聞社刊)の中で述べている。「(前略)縄文文化ほど、日本固有の文化はない。この固有性と、オホーツク文化という外来性が入り交じっているところに、北海道、とくにオホーツク沿岸の魅力がある」と。 |
| 北海道だけで発展した続縄文・擦文文化 |
| 紀元前五世紀ころから本州では弥生時代へ移ったが、北海道では鉄器のみが伝来しそれまでの縄文文化を継続しながら六世紀頃まで続く。これを続縄文時代と呼んでいる。 その後に訪れるのが擦文(さつもん)文化時代である。擦文とは、刷毛で擦(こす)ったような紋様から命名され、いわゆる『縄文』紋様は消滅していった。またこの頃になると本州との関係が深まり、素焼きの土器「土師器(はじき)」や、ロクロで成型し高温で焼いた「須恵器(すえき)」が北海道へも渡ってきた。 擦文文化の遺跡としては、常呂遺跡をはじめ、紋別のオムサロ遺跡、湧別のシブノツナイ竪穴住居跡などがあり、オムサロ遺跡公園では復元した擦文時代の住居が見られる。 擦文文化は十二世紀頃まで続くが、その間オホーツク文化は擦文文化へ吸収される形で消え(トビニタイ文化)、擦文文化もまたアイヌ文化へと移った。しかし、文化の流れは決して途切れるのではなく、縄文〜擦文、オホーツク文化も、アイヌ文化のDNAとなって脈々と流れていったのである。 |
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