オホーツク各地に郷土博物館・郷土資料館・民俗資料館など多数の施設が存在する。
北方民族の文化と歴史を学べるのが「北海道立北方民族博物館」。
北方地域を専門とする点で日本では唯一の、そして世界的にも数少ない民族博物館である。古代オホーツク人がどこから来てどこに消えたのか?謎を解く鍵がここにある。北方圏全体から見るとオホーツク地方は南の楽天地であったのかも知れない。
大正2年、在野の学者であった米村喜男衛氏が、アイヌ文化研究のために訪れた網走でふと目にした河口岸の断崖。そこには貝殻が露出したまま層となって重なり、貝のほか石器、骨角器、土器、人骨などの出土品はどれもが他に類例を見ないものだった。この「モヨロ貝塚」の発見は世界的にも注目され、作家の司馬遼太郎氏も著書「街道を行く」の中で発見者の米村氏をトロイの遺跡を発見したシュリーマンと並べて書いているほど。
北海道オホーツク地域に残る多くの古代遺跡。オホーツク人(モヨロ人)はどこから来てどこへ行ったのか。古代人が残した爪跡は、訪れる人を果てしない想像の世界へと駆り立てずにはおかない。
網走のモヨロ貝塚などの遺跡からは、アムール川(黒竜江)流域や東シベリア地域との交渉が密接であったことを物語る遺物がたくさん出土している。
オホーツク地方(オホーツク総合振興局管内)では2,000を越える遺跡が確認されているが、地域によって時代が大きく異なる。オホーツク沿岸地域では縄文、続縄文、オホーツク文化、アイヌ文化まで各時代の遺跡が分布しているのだ。 約2,500に及ぶ竪穴住居が連綿と残る常呂遺跡、オホーツク文化遺跡として著名な網走市のモヨロ貝塚、縄文後期のもので小型のストーンサークルを内部に持つ斜里町朱円周堤墓などが代表格。また、黒曜石の原産地として知られる白滝村(現遠軽町)など内陸部では旧石器時代の遺跡が多く見られる。オホーツク沿岸の古代遺跡は樺太・シベリアなど大陸諸文化との関係が強く認められ、北方古代文化の解明に果たしていく役割は大きい。
(オホーツク21世紀を考える会」作成の冊子『春のオホーツク体験紀行』から)
状況が一変したのが、明治のなかごろである。北辺警備の必要を痛感した明治政府は、明治23年(1890年)、釧路と網走を結ぶ釧路道路を突貫工事で開通させ、さらに翌24年には旭川と網走を結ぶ中央道路(現在の国道39号)を完成させた。このとき道路開削のために集められた釧路監獄所の囚人たちの宿泊所として建てられたのが、網走刑務所の始まりである。
こうした道路とともに開拓の動脈を担ったのが鉄道だ。大正元年(1912年) に網走と十勝の池田を結ぶ網走線(後のふるさと銀河線/2006年4月廃線と石北本線)が全線開通、初めてオホーツクに鉄路が達した。 これによって全国からの入植者だけでなく道内他町村からの第2次移住者も殺到、人口が20万人と、倍々ゲームで増えていった。 オホーツク地方では道路や鉄路沿いに集落ができ、それが開拓の起点となった。北海道の多くの入植地が川に沿って開かれていったのとは対照的である。
明治30年(1897年)と31年、北辺の警備と開拓の2つの任務を帯びた屯田兵約1000人(家族を含めると約6000人)が、中央道路沿いの北見と湧別に入植した。当時のオホーツク地方の人口が1700戸7000人だったことを思えば、この数字の重さが知れよう。
立木一本伐採されると、それだけ地面の陽の目を見る。小枝一つを灰にすると、畑地が、それだけ広げられる。熊笹の根一本引き抜くだけでも土が耕されるのだ。
北の最果て、厳寒の地オホーツクは、開拓者達の情熱・執念・努力・英知の結晶の地でもあるのだ。
※屯田兵による開拓の歴史を学べる上湧別町の「ふるさと館JRY」。貴重な資料のほか内部には屯田兵屋が復元され、当時の生活を垣間見ることができる。